投げ銭頂く「乞食」
2009年 11月 22日
私は現在テレビの番組などを制作しながら、なんとかご飯を食べていますが、
本当に突き詰めて考えると、こんなことでご飯が食べていけるなんて奇跡的だと思うのです。
私たちの仕事は、あまりにも実際の生活に遠いからです。
例えば、食べ物を作ったり、運んだり売ったりするのは、人間が生きることを支える、
もっとも根源的な仕事でしょう。
そうゆう仕事に比べたら、我々の仕事は、本当の仕事とは言えない、
「お遊び」のようなものだと時々感じます。
原始社会で考えれば、米作りで一生懸命働いて疲れた人々の家を回って、
「面白いお話」を喋り、投げ銭を頂いているのと同じことです。
そう考えると、「乞食」とあまり変わらないではありませんか。
(注・私は「乞食」を差別的な意味で使っていません。歴史上、
そうゆう生活されていた人々を指し示す言葉として、
この言葉に代用できるものがないから使用しました。)
歌舞伎や芸能も源流を遡れば、食料の生産手段を持たない「河原乞食」が始めたことですし。
現代では、そのような文化芸能が、「百姓」よりも上の階級のように扱われているのは、
実は、おかしいことのようにも思います。
(注・私は「百姓」という言葉を差別的と捉えていません。
百の仕事をこなす人という意味があるからです)
「芸能」はつまらなければ、お金を貰えない厳しい立場です。
もちろん私の関わっている「ドキュメンタリー」は「報道や広報」的な意義も含まれてはいますが、
「テレビ」というエンターテイメントのビックリ箱を通して送るとなると、
限りなく、享楽的要素を含めて届けるようになってしまうのです。
テレビのことを「電波芸者」と見下げた人もいたようですが、的を得た言葉ですね。
まあ、それでも、自分のできる範囲で「意味あるもの」を送り届けたいと思ってはいるのですが。
ほんとに皆さん、いつも「投げ銭」くださり、ありがとうごぜいます。